ネパールにおけるグラウンド建設

計画の背景、これまでの経緯

スコアボード(2004年)

1999年9月8日 活動開始

私たちは1999年9月8日、ネパールのポカラで活動を始めました。当時、ネパールでは野球が全く知られておらず、「これがボールです」といった道具の説明から活動を始めました。以来、理念は「協働」、オリンピック出場といった夢も抱きながら、ネパールとの交流を続けてまいりました。そして、長年に渡る活動の中で、野球はネパールでも徐々に広がっていきました。

ルールブック(2002年)

2002年には、当時、ラリグラスの会から指導員として派遣されていた園田健弥とナワラジ・ブジェル氏を含めた選手たちが手作りでネパール語のルールブックを作成しました。ルールブックの中にはグラウンドのイラストも描かれており、彼らは「ネパールにも野球好きの人が増えて、いつかこんなグラウンドが出来たらいいな」と話をしていたものでした。

その活動の原点となっているのが、バルバドラ・セカンダリ・スクールのグラウンドです。長年に渡る活動の間、ここで何百人もの子どもたちが野球をし、ネパール初のプロ野球選手やネパール代表選手が生まれるとともに、多くの日本人がこの地を訪れ、野球交流を行なってまいりました。また、2009年には、ネパール野球ソフトボール協会(NBSA)が設立され、ネパール野球も新たな発展の段階へと入っていきました。

投手イッソー・タパ(2003年)

2012年の見積書

「世界はTokyoをめざす!」
(2016年)

しかし、ネパール野球が発展する上で常に妨げとなっていたのは、グラウンドの問題でした。現在、ネパールでは学校のグラウンドや農地の空き地等で野球を行っていますが、狭く凸凹で囲いも無く、人や牛が通るなど、安心して野球ができる環境ではありません。ネパールにはグラウンドに適した広い土地が少なく、子どもたちが安心して遊べる場所が少ないことがネパールにおいて野球を含めたスポーツが発展しない理由のひとつともなっています。

そんな中、2012年に現地ではグラウンド建設の機運が盛り上がり、費用の見積もりも行われました。しかしながら、私たちはそれを時期尚早と考えるとともに、当時はバルバドラ・セカンダリ・スクールのグラウンドが、建設が予定されているポカラの新空港の滑走路の用地となる可能性もあったため、グラウンドの建設には至りませんでした。

一度は見送ったグラウンド建設計画でしたが、2008年の北京を最後にオリンピックの正式種目から外れていた野球が2020年の東京オリンピックで復活することが決まったことでオリンピックへの熱意が再び高まり、グラウンド建設を望む声も強くなっていきました。そして2020年の東京オリンピックを題材として2016年10月に始まったNHK-BS1の新番組「世界はTokyoをめざす!」の第1回目でネパール野球が取り上げられ、その中でも現地の野球関係者がグラウンドの建設を熱望していることが紹介されました。さらには、2015年に発生した大地震がその思いに拍車を掛けました。グラウンドが有れば、そこを災害発生時の避難場所として確保でき、安心感が生まれるという考えです。

ナワラジ・ブジェル氏来日
(2017年)

このような状況の中、ネパール側の熱意にも押され、私たちは「今こそ、グラウンド建設を進めるべき」と考えるに至りました。そして、野球のみならず他のスポーツや災害時の避難所としても使える多目的なグラウンド建設を目指してネパール側と協議を始め、改めて建設地の決定、建設費の見積もりなどを行ってまいりました。しかしながら、現地には野球のグラウンドについて知識を持っている者がおりません。そこで当会の活動初期からの選手でポカラ・ベースボール・クラブの代表者であるナワラジ・ブジェル氏が本年8月下旬に来日、約3ヶ月に渡って日本に滞在し、実際に野球場を見るなどしてグラウンドに対する見識を深めました。ナワラジ・ブジェル氏が日本で学んだ内容は、今後のグラウンド建設において大いに役立つこととなり、同氏は帰国後も本計画の中心人物として計画実現に向けて邁進しております。

学校関係者との協議(2017年)

以上のような長年の経過を経緯を経て、今般のポカラにおけるグラウンド建設計画は、その実現へ向けて具体的に動き出すことになりました。